4番目の分類、報身に関して、「道の階梯」は示している:
自己への意識の顕れは、
自然に完璧な、光明の多様な光線、国土、宝殿、座、そして装飾品として生じる。
ここに示されているように、五重の必然を授けられた悟りの形態は、この内的明澄さ、実在の根源空間の中から表れます。
太陽光が結晶に当たったときに発生するはっきりとした顕れのように、彼らは標識やマークの海の権化として自然に現れる。
これらは菩提(悟りの境地、仏性)そのものの出現、5部族の教師である統治者である。
彼らは、空の形態に似たものを明らかにし、永遠の絶え間ない輪を楽しみます。
彼らは完全に唯一無二であるので、第十地を習得した者であっても、それら(菩薩)を見ない(理解しない、知らない、考えない、認識しない)。
その理由は、彼らがまだ全体として無明を放棄していなくて、どんなものが実際にあってどんなものが現れるのかということに関連付けられた資質の全体の範囲を眺める精神的な視点をまだ獲得していないから。
「至高の連続体」は示します:語ることができる何かが根本原理に包含されることはありません。
概念化されないものは、すべての例えを超越します。
より高いものはないように、それは存在にも静寂にもどちらにも収まらない。
高貴なものたちでさえ勝利者の領域を見抜けない。
天上の宮殿と完全なる地位に関連する他の要素が自分自身に顕れ、この地の光明に基づいた存在が現れる。
これは夢の状態で発生する純粋な顕れに例えることができます
彼らは無明の全ての範囲を消滅している人々に表れないが、彼らをいくつかの他の場所に存在する現実や個体の実体として見るべきではない。
これは、様々な空の形態が、そのエネルギーが中央チャネル(脈管?)に侵入していて、まだ同時に同じ場所にいる他の人はまだこれらの形態を参照することができないヨギに現れることがある、という事実に似ています。
水晶の光が内側に退いたならば、その光はこの光のスペクトルの現れに関する原理の内側に存在するままである。
同じように、この内的明澄の三身は、妙なる智慧の根源空間内にはっきりと存在している。
次の例は理解を容易にします。
太陽がひとつの条件として存在する場合、光のスペクトルは、結晶から外側に投影します。
同じく、外界の様式で自分に現れてくる因子として、
智慧の表面の資質が、仏性(悟りの境地)の全ての標識とマークが授けられた形態として燃え盛る。

五番目の区分は応身で、それはあらゆるどんなものとしても現れ得ます。
ここでわたし達が抱いている理解は「神聖な教師、勝利のものらの子孫を導く指導者、高貴なものら、そしてその他の平和の島に向かうような存在ら」と呼ばれるものである。
これらの教師は 至高の弟子の認識に顕現する報身の投影である。
彼らは、それ自身に現れる要素から構成される根源世界の偉大なる報身と似ているように見えるが、これは彼らが実際にそうなのではありません。
例を用いると、この二者は鏡の投影と真体の違いのようなものである。
それの投影のように、現れてくるものは全てのその標識やマークを伴う報身とほんとうに似る。
しかしながら、これらの浄土や、従者、そして他のそのような要素は、他のものに現れて十段階の出現の中に含まれる。
これの説明として、太陽と月の結合のタントラは、それらを「半応身、半報身」と分類する。
それらはそれ自身に現れる自然な放射物であるから、それらは”自性化身浄土”と呼ばれる。
これらの国土はこう呼ばれる、無類の、完全な喜び、栄光(蓮華土とも呼ばれる)、そして至高の活動の成就。
これらの5つの国土の中で、5部族のヴァイローチャナおよびその他のその他の仏陀は彼らの純粋な従者に指導する。
10番目の段階において、彼らは彼らに教える、5部族の本質を、5つの法を、5つの変化を、偉大なる光で力を与えながら。
これはまさに極致です、仏陀の偉大なる功績の。
『顕現する悟りの幻影』は明言する:
 純粋な段階を習得し、そして5人の教師、
 5つの至高の教えと5つの智慧の完全な極致から、
 完全な悟りの本質に進む
この状態からそれが「衆生調伏化身」として生じる。
その衆生調伏化身の形態は健全なカルマの勢いの種達から生じる、月がその投影を水中に放つ方法と同じ様式で現れながら。
月が投影を放つ力を持っているのと同じように、月のような報身は、指導を必要とする者の認識に現れる放射物を投影する力を持っています。
そして、ちょうど水が起こるべき月の投影を可能とする因果関係として働くように、指導を必要とする者は、これらの放射物の出現を可能にするという功徳があります。
これら二者が一緒にされるとき、放射された投影が衆生を調伏するために現れる、どのような方法でも必要とされる方法で、ちょうど水に月の投影が難なく現れるように。
個々の存在のカルマに従って、これらの放出物は、より高く顕現するより高い領域の形態や、横向きに顕現する動物、もしくは地獄の存在、そして下向きに顕現する精霊をとることがある。
それら(放射物)は、全ての苦難の性質を体験する存在の6つのクラスの幸福のために働く、存在のそれぞれのクラスの認識に基づいて。
この目的のために、彼らは覚者、6人の賢人として放射されることによって他の人の福祉を実施しています。
ある人らは調伏されます、悟りを開いた体によって、大いなる功徳の本体によっておこなわれる12の偉業として。
他のものらは、悟りを開いた言葉---本当に存在する音や言葉を超えた様々な伝達手段によって調伏されています。
まして悟りを開いた意に調伏される、つまりそのような法身普賢の完全に完璧な活動のような千里眼の6つの形態によって。
さらにもっと、直接および間接の両方のあらゆる方法で実施される、想像もつかない悟りを開いた活動によって調伏される
詳細は、直接および間接の両方のあらゆる方法で行わ考えられない賢明な活動によって飼いならされています。
華厳経は示す:
ああ、高貴な弟子よ、如来の放射物は無限である。
彼らは存在の幸福を実施しています。どんな形態でも、色でも、名前でも、彼らを調伏するのに適している。
これらのうち、12の悟りを開いた行為を明示するひとつは「至高の応身(uttamanirmanakaya)最勝応身(ひとつの世界の一つの時代に1人しか出ない)」として知られている(釈迦牟尼と6牟尼が例)。
彼らの深い同情(慈悲?)を持って他の人を調伏する他の形態は、「多様応身(変化身?)」として知られている。
このように生まれているものは、直接人間に利益をもたらす物質の身体における放射物である。
このような放射物は、他者の幸福のために働いている。例えば、
飢饉の時に登場した巨大な魚のように、例えば、伝染病の間に放射された被造物のように
、そして悪魔の島(シンハラの島。シュリーランカ)に行った高貴な馬の王のように。
(ajaneya:of noble origin, or good breed, well-bred horse)(balahaka:子殺し、打ち倒す者)ハヤグリーヴァ?バラハという馬の王の神がいるらしい
「創造された応身」は、絵画、彫刻、蓮、願いを叶えてくれる木、公園、庭園、天の宮殿、宝石、船舶、橋梁、及びランタンのような物理的なオブジェクトとして表示されます。
簡単に言えば、衆生を利益するために与えられているすべてのものは祝福された放射物である。
これらのすべては、基本から生じると戻ってそれに溶解する。
これが起こる道のりは、最も厳しい試練に耐えることができる。
全知の存在はさらに説明します:
調伏すべきものが無くなる時には、調伏が宇宙に退くところのもの;
報身自身の表れは法身に戻って消えていきます。
それを保持するためには水がないように、時が来て月の投影が空に退くのと同じように、新月が満ちることも衰えることもしないように、
調伏すべき存在があるとき、それらは前と同じようにだんだんと表れます。
これは自発的に存在している成就である。
ここで示されるように、月の反射を保持する水がない場合に、それは自然に宇宙に戻って消える。
調伏すべき人間が存在しない場合にも同様の方法で、応身の月のような投影 - 彼らの認識に現れる仏陀は - 単に報身自身の顕れの内の平穏の状態に溶解する。
この例を使用しているものの、それはあるものが何か他のものから生じ、再びそこに溶解することではけっしてありません。
同様に、報身も同様に、法身の根源空間の内的光明の中に溶解する。
「宇宙に集滅する知恵」とも呼ばれるこのプロセスは、内的明澄の状態を残したままの新月に例えられる。
中観派の信者は、この発生を説明する。現象の根源空間における平穏な安らぎによって引き起こされる、至高の止状態の内の瞑想的均衡として。
彼らはまた、慈悲深い働きがある者の以前の願望に基づいて他の者の知覚に行われることとみなす。
「至高の連続体」は、その一方で、瞑想的均衡の知恵が変動しないものの、利益の考えられない量が前もった計画の状態を経て衆生にもたらされているとみなしています。
それは説明しています:
智慧は非概念および後に続いて起こる達成(獲得)としてみなされる。
この最初のセクションの内容は、主な論文で広く説明されているので、理解することはかなり容易である。
さらに、詳細な説明は時間がかかりすぎるでしょう、そして私はそれを行っていない。
私も明確にする必要のある困難な点がないと感じています。